地方公務員(技術)経験談

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公務員からの転職

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関西

経歴

兵庫県立総合衛生学院保健学科卒
保健師(当時は保健婦)として1985年に堺市役所入庁
2000年3月退職
インテリアコーディネーター・収納アドバイザーとして起業

兵庫県立総合衛生学院保健学科卒、保健師(当時は保健婦)として1985年に堺市役所入庁、2000年3月退職、インテリアコーディネーター・収納アドバイザーとして起業

―そもそも公務員になられた経緯を教えてください。
 私は母子家庭で育ちました。そのため小さいころから母に「手に職を持て」とばかり言われて大きくなりました。実は母は過去に民営の医療機関で栄養士として働いていたことがあり、民間の大変さ、たとえば公立病院との違いをひしひしと感じていて、公務員憎しの考えも持ちながらも、子どもに対しては「公務員になれ」と再三言っていました。当初は教師を希望し、高校3年生の時は教育大学を目指していました。
 しかし残念ながら受験に失敗してしまい、再受験を目指す私に、母は保健師を勧めてきたのです。自分が勤めてきた栄養士の経験から、いずれ来る高齢化社会を見通して、これからは子ども相手だけよりも高齢者まで含めた幅広い年齢層を対象とした仕事のほうがニーズが増えるという読みもあったのではないかと思います。
 そこで私は進路を変更し、兵庫県立総合衛生学院保健学科に入学しました。今は保健師、当時の呼び名だと保健婦を養成する専門学校扱いで、基本的には各都道府県に1つずつしかない学校でした。
 その後、保健師の資格を取って、堺市役所の保健師の採用試験を受けて1985年に市役所に入りました。つまり、まる15年勤めた計算ですね。

―当時の仕事内容はどのようなものでしたか。
 保健所内で実施する乳幼児健診などに対応するほか、赤ちゃんから老人まで、地域に住むさまざまな人を対象に家庭訪問をして保健指導を行っていました。当時の基準では各小学校区に保健師1人、およそ人口1万人当たり1人といったところでした。もちろん訪問するのはすべての世帯ではなく、たとえば子供の発達の遅れのがある家庭などの問題ケースを中心にということになりますが。感染症予防など、法令に基づき訪問し、措置をしないといけない仕事もありました。

―転職に踏み切られた経緯を教えてください。
 10年あまり勤めていると、一緒に働いてきた上司の姿を見ていろいろなことを感じます。もともと尊敬していた上司もだんだん偉く…


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